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「“これからの時代” 対策」とは? 

 

 誰もが肌で感じているように、いい大学を出ていい企業に入れば人生安泰…という時代は、その価値観とともに終わりを告げようとしています。組織が守ってくれないのであれば、自分で自分の身を守るしかない。その時にどうしても必要なのが「考える力」です。

 

 そもそも「考える力」を養うのが、「教育」の役目であるはずです。ところがどうでしょう、小中高と教育を受けても、試験が終われば消えてしまう知識だけが身に付いて、肝心な「考える力」は教えてくれなかった気がしてなりません。それもそのはず、限られた教員が限られた時間で、大人数の生徒に教えるのは大変なことです。さらに彼らには、「採点」という大事な仕事があります。「成績」という目に見える「結果」を出すためにはどうしても、「採点」することによって目に見える「数字」に頼らなくてはなりません。

 

 しかし、本当の「考える力」というのは本来、数値化できないものです。数字に表れないから周りには見えづらいし、急に閃くようにわかることもあれば焚火で風呂を沸かすように時間がかかることもあるので、なおのことその場しのぎの「採点」には向いていません。学校の「教育」というのは実は、「考える力」とは縁遠い場所にあるのです。

 

 こもれびでは、このような「教育」のあり方に疑問を呈します。

だから、数字で全てが決まってしまう「受験」対策は、あえて行わないのです。

 

 その代わりに、重要な「受験科目」である「国語」「数学」「英語」はそのまま利用します。この三科目は、使いようによっては大きく「考える力」に寄与してくれるものです。赤ワインと白ワインとロゼワインがあるとしましょう。そのまま飲むだけならある程度ルールが出来上がってしまいます。赤ワインは常温で、白とロゼはしっかり冷やして…と、勝手に「答え」が決まってしまうのです。しかし、特定の料理との食べ合わせとなると、急に考えなくてはならないことは増えます。肉には赤、魚には白、それじゃ和食に合うワインってなんだろう…?そんなとき、もっと言えば、他のお酒を足してカクテルを作ることもできてしまうのです。こうした際限のない問いが、「考える力」を醸成させてくれます。自分の力で考えて、自分だけのカクテルを作れる人が、これからの時代を彩っていくでしょう。

 

 

 

“受験” は変わる?

 

 2021年を境に、日本の大学受験システムは大きく変わります。

 

こう変わる!大学入試 ~2020年度からセンター試験に代わる試験を実施~

http://www.keinet.ne.jp/dnj/20/20kaisetsu_02.html

 これは文部科学省より公表された「大学入学共通テスト実施方針」をもとに河合塾がまとめたデータですが、ここからわかることは、

 

  1. 「センター試験」がなくなり「大学入学共通テスト」になること

  2. マーク式の問題は減り、記述問題が重視されること

  3. 英語の試験は大きく変わり、民間試験(TOEIC等)も活用されること

 

 などですが、もっとも重要なことは、

 受験の形式について、文部科学省も何が正解なのかわかりかねているということです。

 

 その理由は簡単。“正解” などないからです。

 いくら試行錯誤を重ねても、「これなら安心」という試験案には辿り着きません。これでよし、と決めたその瞬間にも、刻々と時代は変わって行っているのです。

 ひとつ確かなのは、現在までの「暗記重視型」の試験が見直され、「思考重視型」になっていくということ。それはマーク式から記述式への移行からうかがい知ることができます。しかし、「記述式」の問題を増やせばそれはよりよい試験になるか?この問いには実のところ、誰も明確には答えられないだろうと思います。なぜなら先ほども述べたように、試験には「採点」がつきものです。「記述式」の問題を採点する基準を設け、採点官を育てるのに莫大な時間と労力がかかる上に、学校教育の現場で教え方を「記述式」へシフトしていくためには、それ以上の時間が必要となります。結局、「思考」が重視されるかに見える「記述式」の問題も、パターンごとに点をとりやすい「模範解答」が出来上がっていくでしょう。そして自分の頭で考えることなく、それをまた「暗記」するだけで終わってしまう可能性も十分に考えられるのです。

 

 

 

 

「自分の言葉で考える」

 

 このように、これから日本の受験が、教育が、どのような舵取りをしてどんな歩みを見せるのか、正確なことは誰にもわかりません。ただ、小中高にとどまらず、大学も、受験予備校である塾も、それに合わせながら変容を余儀なくされるでしょう。

 今までは、いい高校に通っていれば、名の知れた予備校に通って有名大学に入れさえすれば、「大船に乗った」気分でいられました。しかし、大企業の地盤も揺らぎ、終身雇用という言葉は泡沫の如くなくなろうとしています。タイタニックも沈むのです。

 “これからの時代” は、ひとりひとりが荒波の中を、それぞれのボートで漕ぎ渡らなくてはなりません。そこで必要となるのは自分だけの「コンパス」です。そしてそれは誰に渡されるものでもなく、自分で見つけなければいけないものです。

 

 そもそも勉強は、とても個人的なことです。みな一様に同じことを学んでいるようでも、まったく同じ知識を持ってまったく同じ考え方をする人は二人といません。人それぞれ、考え方には “クセ” のようなものがあるのです。それはちょっとした好みとか、あるいは勘違いとか、様々なものが絡み合ってできるものです。「個性」とも呼べるかもしれません。

 しかし国が定めた教育方針は、こうした個性をよしとするものではありません。クリエイティビティが大事だと言っておきながら、導かれるはルールと正解ばかりの世界。なぜかと言えば、その方が “管理” がしやすいからです。国は大きな大きな組織です。国家でも、企業でも、ルールはしっかりしている方が組織は管理しやすくなります。安心感はあるかもしれません。しかしそれは往々にして、個々の考える力を減らしてしまうのです。

 

 繰り返しますが、組織に守ってもらえる時代は終わりに近づいています。これからは、「どれだけ大きな船に乗れるか」ではなく、「どれだけいいボートを作れるか」の方が、ずっと大事になるのです。ではそのためには何が必要かというと、残念ながら答えはありません。いい学校を出た方が、英語が話せた方が、資格を持っていた方が、確かに立派なボートになりそうな気がします。けれどこれらはあくまでも別個の部品であって、「これさえあれば沈まない」絶対安心の道具は存在しないのです。

 だから「コンパス」が要ります。どれだけ頑丈な船も頼りにならないなら、そればっかりに腐心するより、上手に荒波を避ける術を知っている方がいいでしょう。「いいボート作り」に加えて、自分だけの航路を見つけるための「コンパス」をこしらえるのです。

 

 ではどうやったら「コンパス」が手に入るか?

 これには「答え」があります。

 

 とにかく、考えることです。納得いくまで自分の言葉で考える。

これが出来れば、自分だけのコンパスは自ずと見つかります。

 

 だからこもれびでは、一緒に考えます。

 そして「自分の言葉で考える」ために、

 学校の科目を、外国語を、勉強するのです。

 

 

 

「グライダー」から「飛行機」へ

 

 『思考の整理学』(外山滋比古 ちくま文庫 1986年刊行) という本があります。200万部を越えるベストセラーになったので、知る方も多いでしょう(先ほどの「カクテル」の例も、この本にインスピレーションを受けています)。

 

 その序盤で、「グライダー人間」と「飛行機人間」という比喩が語られています。大事な箇所なので、何部かに分けて引用したいと思います。

 

 ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。

 グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。

 

 誰かに言われたことをこなすだけで「自分の力で」考えられない人間のことを、風がないと飛べない「グライダー」という喩えで巧みに表しています。

 

 学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。

 

 学校のクラスも立派な組織。「出る杭は打たれる」と言わんばかりに目立った個性はかき消され、“普通” であること、みんなと同じであることこそが善とされます。自らエンジンを搭載した「飛行機人間」は、学校では迷惑者となってしまうのです。

 

 人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。両者はひとりの人間の中に同居している。グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるかわからない。

 しかし、現実には、グライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という〝優秀な〟人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も〝翔べる〟という評価を受けているのである。

 

 下線を引いた(筆者による)部分がポイントです。要するに、人の言うことをよく聞き、理解し、そのまま実行する「グライダー能力」も、自発的に考え、それを伝えられる「飛行機能力」も、等しく重要なのです。ただ、著者は、それが前者に偏りすぎていることを嘆いています。これらはそれぞれ、最近の言葉を用いれば「インプット」「アウトプット」と言い換えることも出来るかもしれません。どちらも大事であることがわかるでしょう。

 

 指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。それを学校教育はむしろ抑圧してきた。急にそれをのばそうとすれば、さまざまな困難がともなう。

 他方、現代は情報の社会である。グライダー人間をすっかりやめてしまうわけにも行かない。それなら、グライダーにエンジンを搭載するにはどうしたらいいのか。学校も社会もそれを考える必要がある。

 

 「グライダー型」「飛行機型」それぞれの長所や、今なぜ「飛行機人間」が必要になるのかがよくまとめられています。ただ驚くべきなのは、ここで言う「現代」は30年以上前、1980年代のことなのです。彼の主張は時空を超え、色褪せないテーマとして今も変わらずわれわれに向けられています。その先見の明には、畏怖の念を抱かずにはいられません。

 

 この本では、グライダー兼飛行機のような人間となるには、どういうことを心掛ければよいかを考えたい。

 グライダー専業では安心していられないのは、コンピューターという飛び抜けて優秀なグライダー能力のもち主があらわれたからである。自分で翔べない人間はコンピューターに仕事をうばわれる。

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