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「ことば」は誰のものか

  • 2019年5月31日
  • 読了時間: 5分

こんにちは。秋本です。いつの間にやら春が終わり、風薫る5月…と思いきや、真夏のような暑さになったり梅雨のような雨続きだったり、となんだか不思議な天気が続きますね。特に、この4月から進学などにより新たな環境で過ごされている方、そろそろ疲れが出てくる時期ではないでしょうか。どうぞお気をつけください。


さて、先日私はTwitterで以下のような投稿をしました。


<ツイート①>

「ことば」は誰のものか。

おそらくそれは、私の中から出ていった時点で既に「私だけのもの」ではなく、受け手との「共有物」になる。


だから、いかに話し手が「そう言ったのではない」と主張しても、聞き手にそう聞こえてしまった時点で、「話し手の意図」という観点からだけでは弁解できなくなる。


<ツイート②>

たとえ「口腔器官を上手く制御できなかった」ことによる、意思とは無関係による「言い間違え」でも、「そう聞こえてしまった」という事実には真摯に向き合った方が良いと思う。


「ついうっかり」で口からこぼれ出た不用意な一言で、取り返しのつかない仲たがいをしてしまった自分の過去を思い出しつつ。


 140字×2という短いものながら、それなりに練ってエッセンスを凝縮したものだったので「言い足りない」感はあまりないのですが、せっかくなのでこれについて少し書きたいと思います。


このツイートはもともと、一部で話題となった、とある式典における、とある人物による発話に端を発したものでした。「願ってやみません」なのか「願っていません」なのか、というアレです。

個人的には、直前の「あらせられますことを」を「あられますことを」と読み間違えてしまったことに気を取られて、その後の「やみ」の発音が曖昧になってしまったのかなぁ、くらいに思っています。失敗が許されないような場で「あられます」と読み違えをしてしまったことで動揺してしまった、という心理状況は容易に想像できます。人間である以上誰にでも起こりうることです。


ですが、その後、公式なアカウントで「あれはきちんと『願ってやみません』と読みました。ですから、問題ありません」とアナウンスされたことには、いささか違和感を覚えました。少なくとも一定数の人に「願っていません」と聞こえてしまった、というその事実は変えようがありませんから、いくら公式的に「『願ってやみません』と読んだ」と言おうと、問題の解決にはならないと思った次第です。それが、先ほどのツイートにつながりました。


よく、「ことばはコミュニケーションツールだ」と言われます。コミュニケーション、すなわち自分の「意思」を伝えるための道具だということです。たしかに、その一面があるのは事実でしょう。

ですが、この件を通じて改めて思ったのは、「意思が無ければそれで良いのか」ということです。


当たり前ですが、コミュニケーションは一人では成立しません。意思を表明する人の向かい側に、それを受け止め、応答する人がいて初めて成り立ちます(「意思の表明」だけなら、地面に穴を掘ってそこに叫べば事が足りてしまいます)。そう考えると、「私」(=発話者)の中にあったことばが「私」から出ていき、誰か(=受け手)と共有された時点で、その所有権は「私」だけではなくその「誰か」にも生じるのではないでしょうか。それが、先ほどのツイートで「共有物」と表現したものです。

であるとするならば、相手に届いた時点で自分だけが所有しているものではなくなっているのですから、いくら発話者が「そのような意思はなかった」と言ってもそれだけでは済まないように思います。


もう少し身近な例で考えてみましょう。

例えば、「何気ない一言」で誰かを傷つけてしまったこと、誰しもがあると思います。この「何気ない」が曲者で、「何気ない」は「何の気もなしに」、つまり「そんなつもりはなかったのに」ということを表します。

こうした場合、多くの人は「ごめんごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだよ」と謝りますね。もちろん、それで事が収まることもあるでしょう。ただ、仮に自分が「言われた側」だったと考えてみると、「そうは言われても、『傷ついた』という事実そのものには変わりがないんだよなぁ…」となんだか釈然としない思いを抱く気がしないでしょうか。つまりここでは、「どういう意思に基づいてことばを発したか」ではなく、「そうしたことばによって誰かを傷つけた」という事実そのものが問われているわけです。


喩えに喩えを重ねるのは好ましくない上に、専門外の分野なのであまり大きなことは言えませんが、刑法には「過失致傷罪」というものがあったはずです。これは、たとえ故意でなくても人を傷つけたり、死に至らしめたりした場合には罪に問われるというものです。この考え方を応用すれば、「そんなつもりで言ったんじゃない」という謝罪だけでは済まない場合があることにも合点がいくような気がします。


一般的な話ばかりになってしまい、いまいちつかみどころに欠けるので私の体験に基づいた具体的な話をしよう…と思って思いを巡らせたのですが、なかなか「これは」という例が思い浮かびません。それもそのはずで、私もこれまで絶対に、「何気ない一言」で誰かを傷つけてきたはずなのですが、「そんなつもり(=傷つけようというつもり)」で発したものではなかったが故に、自分ではそれを認識できていないのです。なんとも情けない話です。


ただ、「情けない」で終わるものでもありませんし、「誰も傷つけないように、これからは一言も話さないようにしよう」というわけにもいきません。私ができるのは、まったくもって月並みですが「ことばの取扱いに気をつける」ことです。

ペンでも消しゴムでも、それが自分だけのものだと思うと、つい扱いが乱暴になってしまいがち。ですが、それが誰かとの共有物であれば、丁寧に扱おうと思うものです。


 「ことば」、大切にしたいと思います。


 それではまた。


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