<断章—まだ見ぬ詩学のための>
- こもれびスタッフ

- 2018年8月10日
- 読了時間: 2分
「詩」ときいて、なにを思い浮かべるだろうか。
かたがた、多くはあの気取った言葉の羅列を思い浮かべることだろう。
ポエムと名状される、誰の目にも明らかな自己陶酔の産物をだ。
しかし詩は、そんなものでは決してない。
詩の姿は千差万別、あらゆる姿をとって現れる。
遠くに聞こえる音楽や、人の声。
雨の日に漂う匂い、遠い日の記憶。
誰しもに訪れうる、妙に生々しい感覚たちのことだ。
何気ない時間に不意にやってきては、私たちの心をくすぐり、すぐさま消えてゆく。
「ポエム」ではなく、「ポエトリー(poetry)」と呼びたい。
なにかしら詩的なものを指していう、poetry。
ものでも、時間でも、景色でも、物語でも、
雑談でも、想いでも、感覚でも、人間関係でもなんでもいい。
あえて断定しよう。このpoetryがないのなら、いかなるものでも貧困であると。
逆にいえば、poetryさえあれば、なんであろうとそれは豊かだ。
そして詩は、どんなものにも宿りうるものだ。
詩はなにものも所有しない、すべては放擲されたままにある。
詩は継ぎ足しではありえない。契機であり、それに続く創造である。
しかしそれと同時に、詩はなにかしらの反復であり、模倣でもある。
詩は否定の身振りでふるまいながらも、なにものも断念することなく、全てを微弱な震えに繋ぎとめている。
詩は時と場所を選ばずに、ところ構わず顔を出す。
詩は幾度となく生まれなおす。再び、また…そうした出合い直しがよく似合う。
昔々あるところに(once upon a time…)の調子ではじまるお話、それもまた詩の過程。
刻一刻と姿を変える。二度とはない時間と空間の、はじまりはじまり。
そうして詩は全体を志向しつつも、眼前の一に留まる。
詩は時間をひねり、空間をねじまげる。そうした当たり前の景色をもったいぶってうたう。
詩に易しさはない、しかしそれゆえに優しい—。
なぜ勉強をするか?
私の答えはこれです。自身の詩学=poetryを掴みとるため…ただそれだけなのです。
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