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2019年11月 ことばの本屋Commorébi 今月の1冊 『精講 漢文』

  • こもれびスタッフ
  • 2019年11月4日
  • 読了時間: 5分

更新日:2019年11月5日

書誌情報

タイトル:『精講 漢文』

著者: 前野 直彬

出版年月:2018年8月

出版社:筑摩書房


 受験勉強の一環で取り組まざるを得ず、文法事項などの約束事をせっせと覚えこむ。受験はなんとか乗り切るものの、その後になって振り返ってみると、必ずしも自らの血肉になっているとは限らず、「あの勉強はなんだったんだ…」と落胆する――。

 こんな経験をされた方は、少なからずいらっしゃるだろう。受験英語のことと思われるかもしれないが、実は今回取り上げたいのは「漢文」についてだ。


 科目としての「英語」が外国語としての英語の学習であるように、科目としての「漢文」は(多少強引ではあるものの)外国語としての中国語の学習であると言える。ただ、漢文は「国語」の中に組み込まれているため、外国語という意識がやや薄まるのかもしれない。私の感覚だが、「受験英語のせいで外国語としての英語に苦手意識をもった」という方は多かれど、「受験漢文のせいで外国語としての中国語に苦手意識をもった」という方はあまり多くはないのではないか。この点、科目名の呪縛というのは恐ろしい(もしくは、ただ単に受験に占める英語のウェイトと漢文のウェイトがあまりに違う、というだけかもしれないが)。


 話を戻そう。仮にも一定程度の労力を割いて学んだ漢文だが、皆さんの記憶の中に残っているのはどんなことだろうか。「レ点」、「一・二点」などの約束事だろうか。もしくは「国破山河有」、「春眠不覚暁」などの詩の一節だろうか(あるいは何も残っていないかもしれない)。ちなみに私は、授業で聞いた詩の朗読の美しさが大変印象に残っている。

 日本における漢文の歴史は、中国語で書かれたものをなんとか日本語で読むための苦心の歴史でもある。先人たちのそうした人間的な苦労を思うと、途端に愛おしく感じられてこないだろうか。


※ ※ ※


 さて、ここからがようやく本の紹介。

 筑摩書房のちくま文庫やちくま学芸文庫から、かつて「名参考書」と称された受験参考書が復刊されていることをご存知だろうか。これまで、それらを書店で見かけたことはあるものの、パラパラとめくるだけで手元に置くことはしてこなかった。

 そんな中、先日ふと思い立って、そうした中の1冊を手に取った。それが、前野直彬氏による『精講 漢文』(2018年、ちくま学芸文庫)。原書は、1966年に学生社から刊行された。


 古い参考書は、なんだか骨太だ。必要なところだけ拾い読みするものというよりは、始めから終わりまで1冊の書物として読むもの、という気がする。ご多分に漏れず、本書もなかなかに読み応えがある。

 「この本の使いかた」と題された序文には以下のようにある。


 ことによると、漢文がむずかしい、おもしろくないという意見の中には、いったい何のために漢文を学習しなければならないのかという、根本的な疑問から出発したものもあるかもしれない。そんなことを言いだせば、やはり高等学校の教科全部に同じ疑問が出せるわけだが、ともかくこれは大問題で、簡単には答えられない。この本は、高等学校では漢文を学習しなければならないという前提のもとに書かれてあるので、なぜ学習しなければならないかという問題は、守備範囲のうちではない。しいて言うならば、この本全体が、その疑問に対する答えとなっているはずなのだ。(p.5)

 このように書かれてしまうと、全編を読まざるを得ない。そしてそう思って読み始めると、受験参考書なのだから練習問題から始まるのかと思いきや、話は漢字の成り立ちから始まる。そして音韻、文法と進んだ後、「三皇五帝」に始まる中国史を、漢文の例文を交えながら清朝まで駆け抜ける。「文法の知識だけではなく中国の歴史や思想・文化をも体系的に学べるようになっている」(背表紙より)という言葉どおりだ。


 受験に限らず「勉強」一般において、ただひたすら、その都度目の前に現れる練習問題だけに対処し続けるだけでは息切れしてしまう。時には、本書が案内してくれるような背景にまで目を向けてみると、学びにも彩りが出てくるだろう。


※ ※ ※


 今回、同じくちくま学芸文庫から出ている、吉川英夫氏による『考える英文法』(2019年)も併せて購入した。実はこちらの原書も、『精講 漢文』と同じ1966年の刊行(版元は文建書房)だ。2冊とも現役時代に使った、という方もいらっしゃるかもしれない。

 先ほどと同様、「はしがき」の一節を書き出してみよう。


 いろいろの文法規則を、ただそういうものとして覚えるのではなく、なぜそういう規則になるのかというところまで理解し、その上他の規則と比較してそれらの関連を考えて合理的に整理し、まとめ上げる必要がある。こうして理解し整理された知識は、実際問題の上で試みて、いよいよ確実なものとする必要がある。(p.3)

 これまた、骨太。しかも、こちらは彩りというよりは燻し銀といった様子。

 ページをめくっていたら、先日のこもれびよりVol.9「ことばの源へ」でも出てきた例文 ”The book sells well.”を見つけた。解説は以下の通り。


 sellは元来は「売る」という意の他動詞であるが、その場合は主語は「人」である。上例では主語が「本」であるので、「売れる」という受動的意味を持つとされている。しかし、本当の受動態なら、「売る人」が考えられるわけであるが、上例の場合にはそれが裏面に隠れて、むしろ「本」の自主的動作のように考えられている。  このような用法の自動詞は常に「物」が主語になるときである。そして、その動作の行われるときの「物」の状態を述べるために、補語をとることがある。自動詞は意味上beに近づくからである。このことは、感覚を示す動詞が「物」(「人」なら、動作を受ける立場に立つもの)を主語としたときにとる意味と似ている。(p.261)

 恥ずかしながら、この用法についてはまさに「ただそういうものとして」覚えていたのだが、「自動詞が意味上beに近づく」と示されて、なるほど!と膝を打った次第だ。


 ちなみに、本書の解説は英文学者の斎藤兆史氏が執筆している。痛烈な批評が展開されているため引用しようと思ったのだが、筑摩書房のWebサイトに全文が掲載されていたので、そちらを案内したい。



 氏曰く「日本人は文法を気にしすぎるから英語が使えないとよく言われるが,そうではない。文法が気にならなくなるまでそれを十分に習得していないから使えないのである」、と。「体得」という言葉や、(先日、塾長・志村がTwitterで呟いていた)「身に付く」という言葉にあるように、文字通り「体に馴染ませること」が肝要なのだ。


 体に馴染むまで訓練したものが骨となり、文化的な背景まで理解することでそこに肉が付く――。今回取り上げた2冊についてそれっぽくまとめるならば、そのようになるだろうか。

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