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「べつの言葉で」(来るイベントに向けての覚え書き)

  • 2019年7月26日
  • 読了時間: 5分

〝わたしは返事ができない。どんな会話をする能力もない。聞くだけだ。店やレストランで耳に入ってくる言葉は、すぐさま激しく矛盾した反応を引き起こす。イタリア語はもうわたしの中にあるようなのに、同時にまったく未知のものだ。外国語だとわかっているのに、そんな風には思えない。おかしいと思われるかもしれないが、親しく感じられる。ほとんど何もわからないのに、何かがわかる。


 何がわかるのだろう?美しいのはもちろんだが、美しさは関係ない。わたしとつながりがあるに違いない言語のような気がする。ある日偶然出会ってすぐに絆とか情愛を感じる人のような気がする。まだ知らないことばかりなのに、何年も前から知っているような。覚えなかったら満足できないし、完結できないだろうと思う。わたしの中にこの言語の落ち着けるスペースがあると感じる。


 距離と同時につながりを感じる。隔たりと同時に親近感を。わたしが感じるのは、何か肉体的で、不意を突かれるような、説明のつかないものだ。〟


これはベンガル人の両親を持ち、アメリカで育った小説家ジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いた『べつの言葉で』というエッセイから抜き出した文章です。著者は “母の言葉” である母語‐ベンガル語と、育った “国の言葉” である母国語‐英語の狭間で揺れ続け、そしてそのどちらでもない “第三の言葉”‐イタリア語へと「逃避」します。


〝わたしにはこの言葉を知るほんとうの必要性はないだろう。イタリアに住んでいないし、よく知っているイタリア人も一人もいない。あるのは欲求だけだ。だが結局のところ、欲求というのはむちゃな必要性以外の何物でもない。多くの情熱的な関係のように、わたしの熱狂は献身的な愛、執着になるだろう。バランスを欠き、報いられることのないものはいつでもあるだろう。わたしは惚れ込んでしまったのだが、相手は無関心なままだ。イタリア語はわたしなどまったく必要としないだろう。〟


このようにして著者は、自分と何も関係なかったはずのイタリア語にのめり込んでいき、新しい扉を開くためにローマへの移住を決心します。


〝わたしはローマにまだ友人はいない。でも、誰かに会いに行くのではない。生き方を変えるため、イタリア語と結びつくために行くのだ。ローマでイタリア語は毎日、片時も離れずにわたしにつき合ってくれるはずだ。いつもそこにいて、大切な存在でいてくれるだろう。ときどき入れてはまた切って、というスイッチのような存在ではなくなるだろう。〟


住んでしまえば、文字通りその土地の言語に “浸る” 生活が待っています。そしてそれは自分が慣れ親しみ、飼い慣らした言葉である母語や母国語やとの決別、「放棄」をも意味します。

また、彼女は生活のためだけに言葉を使う人ではありませんでした。言葉を使って息を吸い、言葉に支えられて立っていられる。小説家として、彼女にとっての言葉は “表現手段” でもあったのです。それは使いやすい道具ではなかったものの、表現者としての新たな可能性を見せるものでもありました。


〝たぶん、イタリア語で書くとき、わたしには不完全であるという自由があるからだろう。

 なぜこの不完全で貧弱な新しい声がわたしを魅了するのだろう? なぜ窮乏がわたしを満足させるのだろう? 路上同然の、こんなに壊れやすい仮小屋に住むために大邸宅を捨てる、というのはどういうことなのだろう?〟


 母国語であり、いちばん “自由に” 使える英語の家を抜け出して、「仮小屋」でしかないイタリア語の中に彼女は移り住みます。「たぶん、創造という観点からは、安全ほど危険なものはないからだろう」。あえて居心地の悪い思いをしてでも、「不完全」なイタリア語で書くことを選ぶのです。


 彼女はこの新しい言葉に魅了されながらも、安易に完成されたイタリア語に飛びついたりはしません。そうではなく、違う母(国)語を持つ自分をしっかり見つめながら、時には山のてっぺんに、時には広い海の向こう側に見えるイタリア語に少しでも歩み寄ろうとするのです。


〝わたしのこのイタリア語の計画は、言語と言語の間に膨大な距離があることをはっきりとわからせてくれる。一つの外国語は完全な分離を意味することがある。いまでも、わたしたちの無知の残酷さを象徴することがある。新しい言語で書き、その核心に入り込むためには、どんなテクノロジーも助けにならない。プロセスを加速することも、省略することもできない。動きはゆっくりでぎこちなく、近道はない。隔たりはそのままだ。言語がわかればわかるほど混乱は増す。近づけば近づくほど遠ざかってしまう。いまもわたしとイタリア語の間の隔たりは乗り越えられないままだ。ほんのわずか進むために人生のほとんど半分を費やした。ここまでやってくるためだけに。〟


 テクノロジーは言語と言語の距離を、あるいはそれを使う人と人との距離を縮め、行き来を楽にしてくれるように思える。実際ある程度そう錯覚できるくらいには、テクノロジーは日々進歩しているのでしょう。けれどその距離は決してなくなりはしないし、なくならない方がよいのです。


〝もしすべてが可能だったら、人生に何の意味や楽しさがあるだろうか?

 もしわたしとイタリア語の間の距離を埋めることが可能だったら、わたしはこの言語で書くことをやめるだろう。〟


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