「名前」を取り戻す
- こもれびスタッフ
- 2020年6月26日
- 読了時間: 4分
更新日:2020年6月29日
大学生の時分、僕はTwitterが苦手でした。
「あんな軽々しく言葉を使うもんじゃない!」と二十歳前後の分際で完全におじいちゃん化していたので、今となっては「老害にならなくてよかった…」とひとつ胸を撫で下ろしたいところなのですが、二十歳の僕の直観もあれはあれで正しかった、と、あれから幾星霜、Twitterを始めて二年になる今、思います。
「言葉の耐えられない軽さ(l’insoutenable légèreté des mots)」
と、水林章先生もそのご著書 Une langue venue d’ailleurs の中で、ミラン・クンデラの L’insoutenable légèreté de l’être (存在の耐えられない軽さ)にかけて示しておられました。これは当時の学生運動で繰り返し叫ばれ、擦り切れてしまったスローガンの類を言ったものなので少し背景は違いますが、二十歳前後の青年が自分を取り巻く言葉に抱く拒否反応としては時代を超えて通じるところがあります。
しかしやはり、時が下り大きく変わったことがあるのも確かです。
半世紀前、「言葉」は口で言われ、手で書かれるものでした。そこには声があり、筆の跡があり、つまり「名前」があります。言葉の中身は何であれ、誰かがその誰かの名前の元で発するものでした。
けれど現代ではそのような言葉は「体温がある」と言われ有難がられる始末です。 テクノロジーの要請か時代の趨勢か、インターネットは匿名で「言葉」を、しかも完全に温度を剥奪された形で放り出せる場を無数に提供してきました。
ひと昔前は少し違ったのかもしれません。「~ちゃんねる」といった掲示板などユーザーの志向と用途が限られた場では、(使ったことがないので勝手なことは言えませんが)それほど深刻な、社会問題になるほどの衝突はなかったのではないか、と憶測します。
しかし、たとえばTwitterは今となってはもはや「現実空間」です。一般人も芸能人も、大学教授もYoutuberも、モデルも本屋も猫も杓子もみんな「アカウント」を持ち、現実に紐づいた発言や宣伝を行います。
そしてそこには「名前を持つ者」と「名前を持たない者」が共存しています。
* * * *
最近、友達からある相談を受けました。
「note をはじめようと思うんだけど、実名かペンネームかで迷ってて」
自分の名前が好きなら実名でもいいんじゃない?下の名前だけでも。と僕が言うと、
「でも、本名でやったらそのうち “書きたいこと” じゃなくて “書くべきこと” に縛られちゃいそう」
そう言って彼女は、結局ペンネームで始めることにしました。
SNSを本名でやるのにはいろいろとリスクが付きまといます。たった十年前とも大きく違って、「本名を曝す」ことに対する抵抗は過去に例がないほど強まっているでしょう。
情報の悪用やネットストーキングなど様々な問題がありますが、彼女が言うように「 “書きたいこと” ではなく “書くべきこと” に縛られる」、というのも一つのリスクと言えます。
名前を公開し、プロフィールを公開し、二三つぶやけばそれだけで、「この人ならこう言いそう」というイメージが出来てしまいます。それが過度に固定化されると、そこから抜け出すのは簡単ではないでしょう。
だから何にも縛られずにただ “書きたいこと” を書くためには、あえて名前を明かさないのも一つの手なのかもしれません。
ただ、「名前を明かさない」にもいくつかパターンがあります。
日本人の場合、いちばん名前の原形をとどめていられるのは「アルファベット」を使うことです。日本語には漢字があるので、それを伏せてアルファベットにすることで情報の秘密性が保たれます。 (ただ、僕の場合 Hibiki Shimura としたところで「志村響」意外の漢字はほとんど考えられず、無効です。これからはプライバシーを考えて、漢字の組み合わせが多い名前が好まれるようになるのかもしれません。あるいはもうそうなっているのかも…)
そして「匿名」にするにも種類があり、まったく出鱈目な名前を使うこともあれば、新しく「ペンネーム」をつけることもあります。「ペンネーム」は、それ相応に浸透すれば本名に負けない「ネームバリュー」を持つことになります。
* * * *
« Le nom est le signe de l’âme » (名前は心のしるしである)
これは前述のミラン・クンデラ著 L’insoutenable légèreté de l’être に出てくる言葉です。
登場人物の一人が村で雌牛を飼っていて、三十年前は牛一頭ずつに名前をつけていたのだが、今は多すぎてみんなに名前はつけられないという場面。 「もし名前が心のしるしであるなら、雌牛たちにも(名前があった頃は)心があったと言えよう」という文脈で出てくる一節です。
本名とは言いません。ペンネームでもいい。 けれど何かしら、誰にも「名前」がある世界がいいなと思います。 「番号」とは違う、「名前」には心が、個性とも違う「個」性が宿るから。
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