ことばの道
- 2018年12月14日
- 読了時間: 7分
先日、「日日是好日」という映画を観てきました。
奇しくも樹木希林さんの遺作となった作品です。
映画のテーマは何かと言えば、茶道あるいは “茶の道” です。
“道” というモチーフは、劇中繰り返しでてくるキーワードとも言えるものでした。
さて、ここでは映画評をするわけではないし、ネタバレもしません(思い出しながら書くので、間違っている箇所などもあるかもしれません)。
ただ、僕が語学教師としてこの映画から学ぶことが多かったので、それを書き記しておきたいのです。
個人的には「日本人は~である」という一般論はできるだけ避けたいのですが、映画を観た素直な感想として、千年以上の歴史を持つ茶道によって垣間見える日本人の精神性はやはり、少なからずあるように思いました。
映画では樹木希林演じる武田先生が、黒木華演じる主人公、典子にお茶を教えるという関係を軸に物語が進んでいきます。
序盤に、帛紗(ふくさ:茶器を拭いたりするのに使う布)の折り方を指導し、それから実際に器を拭いたり、茶筅(ちゃせん:お茶を点てるための竹製の道具)を回したりするときの動作を教えるのですが、そのとき武田先生が「そこは“こ”の形」、「“ゆ”の形」という風に、手の動かし方をひらがなの形になぞらえて説明します。これに対し典子が「なんでその形なんですか?」と聞くのですが、武田先生は「なんでって…意味なんてないのよ」と答えるのです。
同じ教えることを生業としている身としては、生徒から「なんで?」と聞かれたときにお茶を濁すのはいかがかとは思うのですが、それはさておき、ここから学んだことが二つあります。
① 形を作って、意味は後から
武田先生はただ無責任に「意味なんてない」と言うのではありません(たぶん)。そうではなく、いちいち頭を働かせて「なんでこれはこうなのだろう?」と問うのではなく、体と手を動かして、“形を作る” ことの大切さを説きたいのだと思います。その道の人にとって、お茶とはすなわち心です。その心の容れ物として、体を、形を、作るのです。
茶道に限らず空手などの武道でも、“型” は非常に重視されます。先ほど「日本人は~」という話を持ち出しましたが、あえて一般論に走るのであれば、「日本人は伝統的に“形から入る”のが得意」なのではないかと思ったのです。言い換えれば、“形” や “型” を重んじるという了解のもと、そこに身を委ねることに対する抵抗が少ないのではないか。これは悪い方向に捉えれば、ルールなどの “形式” を重んじるあまり頭を使って考えないという性質にも結び付くでしょう。けれど茶道など人生の長い時間をかけて親しむものについては、あれこれ言わずとにかく “形” を作り、そこに没入することでしか見えない景色と言うのもあるのだろうと思います。
さて、これを語学に当てはめれば、まず思い当たるのが発音でしょう。発音の訓練とは、“口の形を作る” ことに他なりません。意味や綴りに惑わされず、ただ音を聴いて、その音を発する楽器を作るために口の筋肉を鍛える。これが発音練習のあるべき姿とも言えますし、「形(音)を作って、意味は後から」という心構えもそのまま当てはまります。
ではなぜ、「形から入ることが得意な日本人」が、得てして発音が苦手なのでしょう?これに関してはもちろん日本語にある音素の数など頭でっかちな音韻論的説明も可能ですが、それだけでなく、“形を作る” ことをちゃんと教えていないからなのではないか、とこの映画を観て思いました。
一度 “意味” から離れ、頭を空っぽにして、口の “形” を作ることに専念すれば、日本人の発音はよくなるのでは?そんな気がしました。ただもちろん、時間があればの話なんですけれど。
② ひらがなとオノマトペ
武田先生が「“こ”の形」、「“ゆ”の形」というとき、典子はその意味するところこそわからなかったものの、どんな “形” をなぞればいいのかは一瞬にして解しました。それだけ、ひらがなの持つ “形” は体に刻印されているということです。
舞台となった武田先生の家元は裏千家と呼ばれる流派でしたが、そこではこうしたひらがなの形を用いた教え方は一般的なのでしょうか?あるいはこれは劇中の、武田先生独自の指導法なのでしょうか?僕はお茶には明るくないのでこの辺りのことはよくわかりませんが、茶道とひらがなの結びつきには、やはり何か日本的な情緒を感じます。
情緒と言えば。少しフランス語の話をするのを許してもらえば、フランス語には、日常よく使う過去形が二種類あります。一つは「複合過去」、もう一つは「半過去」というのですが、この違いがなかなかわかりにくい。フランス語を勉強したことのある人なら誰でも、この二つの過去の使い分けに頭を悩ませることと思います。
僕はフランス語教師として、この事態を重く見ています。なぜなら実は、この二つの過去の違いを理解するのはさほど難しくないからです。もちろんまったく簡単ということはありませんが、しかるべき説明を受ければたいしたことはありません。僕が申し上げたいのは、「複合過去」や「半過去」という “わかりにくい名前” のせいで、これらの文法事項が “必要以上に” わかりにくくなってしまっているのではないかということです。
ここ最近、これが大きな問題意識として僕の頭の中にあったのですが、つい先日あるきっかけで知り合ったフランス語学習者の方から、「文法用語も、もっと情緒のある名前だったらいいんですけどねぇ」と言われました。これを聞いて僕はハッとしました。既存の文法用語に囚われる必要のないことは意識していたのですが、そこに “情緒” を持ち込んでくる発想。かの偉大な数学者、岡潔さながら、何事にも “情緒” は不可欠なのだと彼女は教えてくれました。
そこで、複合過去を「はっきり過去」 、半過去を「ふんわり過去」と呼んでみるのはどうでしょう?とその方に提案してみたところ、「わかりやすい。理屈ではなく、感覚的に落とし込んでわかった気がする」との反応をもらえました。もちろん時には理屈も重要です。頭で理解できることは、できるだけわかっておいた方がいい。ただ、言葉は生きています。理屈や論理だけでは説明のつかないものというのもあって当然なのです。
こういった経験を通して、ひとつ確信したことがあります。それは、また一般論を広げてよければ「日本人はオノマトペから計り知れない情報を汲み取っている」ということです。 “オノマトペ” とは、 “擬音語・擬態語” とも言いますが、「きらきら」、「ふわふわ」、「ぱちぱち」などの表現のことです。
どれだけ知られているかわかりませんが、日本語はオノマトペの宝庫です。外国語ではオノマトペを使わないというのではありません。ただ、例えばフランス語を例にとれば、日本語に比べ種類も圧倒的に少ないですし、また、オノマトペは幼児語のニュアンスが強いです。まだ十分に名詞や形容詞を使えないこどもが、代わりにオノマトペを使っているという印象です。ですが日本語はそうではありません。確かに幼い印象を与えることもありますが大人でも平気で使いますし(一度もオノマトペを使わない日があるでしょうか?)、何より、オノマトペでしか表せないニュアンスも多数存在します。
「あぁ、目がショボショボするなぁ」、「それちゃんとゴシゴシしといてね」、「あのプカプカしてるやつ何?」、「やばいこれ超モフモフなんだけど!」などなど、普段僕たち日本人がどれだけオノマトペに頼っているか、例を挙げればキリがありません。
オノマトペの不思議なところは、特段「習っていない」ということです。学校で習うわけでもないのに、文字や音の並びを見て、感覚的に、でも確実に、何かをキャッチしている。しかも驚くべきことに、その場で発明されたわけのわからないオノマトペでさえも、なんとなくイメージを共有できてしまうのです。
普通、言語音は恣意的だと言われます。つまり例えば、猫がネコ [neko] という音で呼ばれる必然性は一切ないということです。その証拠にフランス語では “chat” と書き、シャ [ꭍa] という音で読まれます。ただ、鳴き声となると話は別で、日本語では猫は「ニャー」だし、フランス語でも “miaou” で「ミャォー」のように読みます。つまり、自然音はある程度そのまま言語音に置き換えられるといいうことですね。ただ、日本語の場合はそれを越えて、かなり多くの精神的な現象までもをオノマトペで表し、それを共有しているのです。
映画「日日是好日」に話を戻せば、途中、典子がある程度お茶の作法をわかってきたところで、柄杓(ひしゃく:釜などから水を汲む道具)から落ちる液体の微妙な音の変化に気づく場面がありました。温かいお湯と冷たい水の落ちる音を聴いて、「全然違う。お湯はとろとろ、水はきらきら」と言うのです。これは必ずしも音を表現しているわけではなく、その情景や質感など、極めて情緒的な何かを表していると言えます。
オノマトペ‐“習ってないのに知っていること”。これをもっと、言語教育の場に活かさない手はないんじゃないか。ぼんやりと、そんなことを考えています。
茶道が “茶の道” なら語学は “ことばの道”。
日本人らしい、形と情緒の学びはないものか。
映画を観終わっての、一語学教師としての所感でした。
志村
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