こども扱い
- 2019年1月11日
- 読了時間: 3分
外国語学習でよくある光景がこれだ。
ネイティブあるいは教師が、
まだちょっとした会話もままならない生徒に向かって
「はい、それじゃじこしょうかいしてみましょうね~」
「いまなんていったかわかりますか~?」
(わかりやすく日本語で書いてあるが、これを外国語で)
などと問いかける。
僕は基本的にはこれに反対だったし、今でもどちらかと言えば反対だ。
相手が年端もいかない子供ならともかく、大人相手にすることではない。
大人はもう自分の言葉を持っているはずだし、それを尊重するべきだと思う。
外国語のスタート地点、つまりゼロ地点では、もちろん普通何も喋れない。
身近で何も喋れない存在は何かと言うと、それは赤ちゃんだ。
まともなことを言えない存在はと言うと、それはこどもだ。
だから自分がある言葉を喋るとき、そしてその空間がその言語で回っているとき、そこで意思表明できない存在はしばしば、年齢に関わらず “こども扱い” される。
僕だって気を抜けない。
日本語を上手く使えない外国人を相手にするとき、
フランス語を習いたての日本人を相手にするとき、
気を付けていないとついつい自分が相手より “上に” いるような錯覚に陥る。
でも本当はそうじゃない。言語のフィールドがたまたまアウェイなだけで、誰だってふだん自分の言語では様々なことを考えているはず。そしてそこにはきっと蔑ろにできない言葉がある。だから不用意に彼らをこども扱いするべきではないし、大人は大人として、その人の経験に即し、尊重するべき。
これが一つの意見。
でも最近、少しだけ気が変わった。
きっかけは友人に借りて読んだ本、
『ちいさい言語学者の冒険-子どもに学ぶことばの秘密』(広瀬友紀著)だ。
かいつまんで言えば、言語学者である著者が自身や友人の子供の他愛もない言い間違えの例などから、大人になってしまうと意識しないような様々な言葉の不思議を紹介する本である。言語学のエッセンスを散りばめながらそもそも私たちはどうやって第一言語(=母語)を獲得するにいたったか、その道のりをユーモア交じりで教えてくれる良書なのだが、一貫して僕がもった感想はただ一つだった。
“やっぱこどもってすごい”
よく「こどものように外国語を学ぶ」といったフレーズを目にするが、あれを見るたびに「そりゃ無理だ」と思う。僕たちはどうしようもなく大人になってしまった。でも本場のこどもはすごい。きっと大人の何十倍も頭を使って、毎日を生き抜いている。言葉を覚えることは、彼らにとってはサバイバルなのだ。
そこで本題、「こども扱い」について。
視点を変えて、大人になりきってしまった大人が、たった一瞬でも、ほんの少しでも、こどものときに見ていた風景を、感じていた動揺や興奮を思い出せるのなら、悪くないのかもなと思った。惰性で生きれば身の回りは知っていることで溢れてしまう。外国語は一瞬にして、そのすべてを “知らないこと” に変えてくれる万華鏡だ。
たまにはこども扱いされて、謙虚になってみるのもいいのだろう。
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