会話をなるめな
- こもれびスタッフ
- 2021年4月23日
- 読了時間: 4分
Twitter である投稿が “バズって” いるのを見た。
テキストは「めっちゃ納得した、英会話教室の広告」と書いてあるのみ。
画像が一枚どんと表示され、いいねの数は10万超。
投稿者は日々、そのアカウントで「いいなと思った広告をシェア」していて、件の画像はある英会話教室が2015年に公開した広告、とのこと。
画像には大きな文字で「こなんに めちくゃちゃな ぶんしょう でさえ、つわたる。」とある。
投稿者もリプライで言及している通り、このように文章の一部の単語が最初と最後の文字を残して途中の順番がおかしくなっていても読めてしまうことは「タイポグリセミア現象」という名で知られている。
画像には先ほどの文章の上にもやや小さい文字で
「おもえば、わたたしち にほんじん も、いつも かんきぺな にほんご を つかてっいる わけ では あまりせん。つっかえたり、いいまちがたえり、ごじ・だつじ が あたっり。そでれも、こんな ふうに、なんなとく つたっわて。ことば って、コニュミケーョシンって、それで じゅぶうん だと おもうのです。」
と続いている。教室のメッセージは明快だ。
「さあ、きがる に、えいご を はなし に きて くさだい。かぺんき じゃなてくも、だいょじうぶ。」
たしかに妙に説得力があり、思わずいいね!と唸る気持ちもわかる。
けれど「めっちゃ納得した」投稿者と違って、僕は全然納得できなかった。
ではなぜ納得しなかったのか、その理由を見ていきたい。
1,見るのと聞くのは違う
まず大前提として、「タイポグリセミア現象」は文章を “読む” ことを想定している。読む=見るのと耳で聞くのでは、情報の処理の仕方が大きく異なる。一度にたくさんの文字を読み込むことができる視覚と比べ、聴覚を使う場合、言語をなぞる場合は基本的に一つ一つ音を拾っていくしかない。
たしかに、先ほどの文章を読み上げてもイントネーションさえ正しければ大体の意味は推測できるかもしれない。けれどやはり目で見たときに比べれば心許ない。ところで、この広告を出したのは英“会話”教室である。広告の性質上どうしたって視覚情報にしか頼れないとはいえ、これでは音を介した会話を軽く見ていると思われてもしかたがない。
2,伝わればいいのか
もっと大きな問題がある。この広告は多くの外国語学習者が抱いてしまっている「間違えるのがこわくて話せない」という心理を突いている。これは(とりわけ日本人においては)無視できない問題で、せっかく勉強しているのに、というか勉強しているからこそ、正しい/間違っている という構図に囚われて何も話せなくなってしまう、という人は星の数ほどいる。
だから「間違えても大丈夫」というメッセージそれ自体の重要性は疑うべくもないのだけれど、問題は誰が、誰に、どのような場でそれを言うかだ。たとえば教室の中で、先生が、見るからに物怖じしている生徒に向かって「間違っても平気、まずは話してみよう」と言うのはむしろ好ましいことだろう。でも、広告のような多くの人の目に触れる媒体でそれを言うのはむしろ「会話なんてテキトーでいいんだ」というメッセージの助長になりかねず、タイポグリセミア現象を使うのもアッと驚くような仕掛けで注意を引きたいという意図しか感じられない(もちろんそれが広告の大義ではあるわけだけれど…)。
会話は本当に、テキトーでいいんだろうか?「間違えてもいい」という言葉はある人にとっては救いの言葉たりえるし、それで解放されることもある。でも、またある人にとっては開き直りの免罪符にもなる。もともと味が薄いところに塩を足せば “いい塩梅” だが、もともとしょっぱいものにさらに塩を振っては食べられたものではない。要は程度の問題なのだ。
それにそもそも、伝わればいいのか。伝わることがそんなに大事なのか。たしかに、言葉が「意思を伝えるツール」である以上、それが目的でなくなることは考えられない。けれど同時に、伝わればそれでいいというコミュニケーション至上主義は、ふくらみを持った言葉をただの情報に還元してしまう。
英会話教室ですもの。時代の趨勢というものがあるでしょう。
でも僕は「めちゃくちゃでも伝わる」とは絶対に言いたくない。
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