語学の “質と量”
- 2019年11月22日
- 読了時間: 8分
どうもこんにちは、志村です。
最近ツイッターで、語学の「質と量」に関する面白い投稿をいくつか見つけました。
今回はそれを出発点に、このテーマについて簡単に考察してみたいと思います。
直接は存じ上げないのですが、日仏伊の翻訳・通訳をされているという平野暁人さんが書かれたnoteです。なかなかの分量がある文章ですがユーモラスな文体で息抜きもできつつ、終始納得しながら読みました。
外国語を始めたばかりの人にまず必要なのは、どんな学習方法でもよいので、あまり悩まずになにかひとつ選んで、とりあえず徹底的に量をこなすこと、つまり「質より量」なのです。
以前こもれびにも遊びに来てくださった(https://www.commorebi.com/vol-6)、英語バイリンガルあやきさんの投稿です。
語学の勉強、質か量か問題。どっちが重要かっていう話じゃないから説明しにくいね。もちろん質は大事だけど、そもそも勉強が習慣化されてない人が質のこと考えても意味が無い。さらに言うと量こなさないと得られない質もある。
お二人のお考えを勝手ながらまとめると、「質より量」、それも、「質より量(が大事)」という意味ではなくむしろ「質より(先にまずは)量(をこなすべき)」という意図があるのではないかと思います。
なんというかあまりにシンプルで、 “やったことがある人にはわかる” 類のことなのですが、さぁこれからだという人にこれを伝えるのは、多少なりとも骨が折れる作業かもしれません。
さて、今回はこの語学の「質と量」の関係についてもう少し深堀りしてみたいと思います。質と量のそれぞれについて、いい状態に保たれている場合を↑、そうでない場合を↓として、➀ 質↑量↑ ② 質↑量↓ ③ 質↓量↑ ④ 質↓量↓ の4通りについて考えます。
もちろん、この中で ➀ 質↑量↑ がいちばんよくて、④ 質↓量↓ では話にならない、というのは一目瞭然だと思います。なのでここでは②と③を比べて、どこがどう違うのか、そしてどちらが最終的に➀に近づけるのか、というところに焦点をあててみます。
まず②から見てみると、これは「質はよく量は最小限」という状態です。おそらく多くの人が最初に求めるのはこれなのではないでしょうか。なぜか?
“質” に関しては平野さんのnoteの中でも言及がなされています。曰く、「質の高い学習法=学習者ひとりひとりの適性に合致した学習法」とのこと。美味しいと感じる食べ物が人によって異なるように、語学における “質の高さ” も突き詰めると当人次第、ということなのでしょう。
対して “量” はというと、万人に対し(ほとんど)平等です。ただ、これも簡単に計れるかというとそうではありません。なぜならここでいう “量” 、それは費やした時間であり、(お金であり、) 労力であり、愛情だからです。これら全てを掛け合わせたものが語学における “量” なのです。そしてこれは “質” とは違って、当人次第 ではない、つまり公平なので、費やした “量” の分だけ効果があり、裏切らないもののはずです。
けれど、②になりがちな人はこれら “量” を担保する要素のうち、どれかが決定的に欠けているのだと思います。忙しい人は「時間がない」と言い、金銭的余裕のない人は教材を買ったり授業に通う「お金がない」と言い、めんどくさがりは「労力がない」し、嫌々勉強している人は「愛情がない」のです。 “量” はこれら全てを掛け合わせたものなので、どれか一つでもゼロに近づけばその総量もほぼゼロになってしまいます。でも結果がほしい。だから “量” を犠牲にして “質” に頼るのです。でもあやきさんが言うように、〝質を「魔法の薬」と勘違いしてはいけない。魔法の薬はない〟わけです。
これが② 質↑量↓の問題点と言えそうです。どれだけ質を上げても、最低限の量を担保できないと意味がありません。語学力はほっておけば勝手に伸びる子どもの伸長とは違うので、自分で量をこなさないといけないのは当然ですね。
では次は③ 質↓量↑ についてです。たぶん (違ったらすみません)、平野さんも、あやきさんも、僕も、②よりは③の方がいいだろうと思っています。その理由を説明します。
先ほども述べたように、量は “公平” で、“裏切らない” ものです。だから一言で言えば、たくさんやれば必ず(ある程度)できるようになるのが語学です。ただ、実感としてこれを理解できるという人より、むしろ納得いかないという方の方が多いかもしれません。その原因は大きく分けて二つあるのではないかと思います。
一つは、「費やした量の見返りが来るのを待てずにやめてしまう」パターンです。量は裏切らない、とは言え、かけた時間や労力がすぐに語学力として返ってくるわけではありません。コンビニなどのポイント還元セールと同じで、買った分(費やした分)だけ返ってくるとしても、それが目に見えてわかるようになるまでやたらと時間がかかることもあるのです。これがなかなか待てずに、効果が表れる前にやめてしまう、という方も一定数いるでしょう。
そしてもう一つは、「費やした量が水泡に帰すくらい質が悪い」パターンです。これは危惧すべき事態です。例えるならば、東京にいる人が北海道を目指すとしましょう。途方もない距離ではありますが、一歩一歩着実に “北に” 進んでいけば、理論上は歩いてでもたどり着けるはずです。そしてこの一歩一歩が、今話している “量” のことです。だいたいでも方角があっていれば一歩たりとも無駄にはならないのですが、ここで思いっきり方角を間違え、真西、ひいては南の方に下ってしまえばこれは逆効果、量を重ねるほど目的地から遠ざかってしまうという状況に陥ります。
語学についても同じことが言え、質は二の次と言ってもあまりに質の悪い勉強の仕方を続けていれば、それは進歩は望めません。具体的にはひどい出来の参考書を使ったり、全然ダメな先生について勉強している場合などが考えられますが、③は質を犠牲にするにも限度があるということです。
今ご紹介した二つのパターンのうちどちらにも当てはまらない、つまりそろそろ見返りがあってもいいくらい十分な量を費やしてきたし、勉強の質もそこまで悪くないはずなのになかなか語学力が上がらない、という方も多いでしょう。そういった方が次に犯人扱いするのは、“センス” そして “年齢” です。「私にはセンスがないから」「私はもう歳だから」この二つは、語学力が一向に伸びないときの言い訳として多用されがちです。
しかし、こういった文句に逃げてしまうのは少し残念な気もします。たしかに語学のセンスに恵まれた人がいるのは事実だし、年齢も若ければ若いに越したことはないでしょう。けれどセンスも、年齢も、それが手の打ちようもないほど壊滅的だ、というケースも逆に珍しいと思います。天才じゃないと語学はできないなんてことはないし、晩年から語学を始めてかなりのレベルでものにしている人も多くいます(それにそもそも、自分の成長は自分でわかればいいのです。他人と比べるものではありません)。よって自分では「センスがない」「もう歳だ」と思っていても、量か、さもなければ質を補ってあげれば実はカバーできるということも少なくないのです。
でも、量を増やすのは骨が折れます。さんざん勉強もしたし、お金も投資したし、努力もしてきたのに一向に伸びない。モチベーションも霞んでしまい、、、この状態からさらに量を増やすのは少しも相手にしてくれない意中の人にそれでもラブレターを書き続けるようなもので、途方に暮れてしまうでしょう。(ドリカムによれば「10000回だめでへとへとになっても10001回目は何か変わるかもしれない」らしいですが)
そして、ここが、この段階こそが、“量から質” へ移行する時です。たぶん、やり方がそこまでよくなかったんでしょう。あやきさんも言うように「量こなさないと得られない質もある」のですが、逆に言えば、ある程度の量まで達したら質のこともちゃんと考えた方がいいのです。これは僕の言葉ですが、語学に近道はないとはいえ、遠回りをしないことならできると思っています。ただ、これも最初からというわけではなく、まずは自分の足で歩き出してみること、いくらか歩いてみて、自分の癖を知ることが重要です。量を捧げる覚悟ができたなら、あるいはすでに量をこなしてきたのなら、質のことを考えていいし、考えるべきなのです。
もう一度、平野さんの言葉を思い出してみましょう。「質の高い学習法=学習者ひとりひとりの適性に合致した学習法」です。まだ始めたての段階では、自分に合った学習法など知る術もないので、参考書で文法を勉強したり、単語帳を買って語彙を増やしたり、代わり映えのしないことしか選択肢がありません。でも、それでいいんです。どんなに巧みに外国語を話す人も、遡れば「まったく喋れなかった」時期があります。けれどその時から、地道に、普通の勉強を続けて、それを重ねて、その果てに「自分に合った」やり方の輪郭がぼんやりと見えてくるのです。
最後に、平野さんの記事の中でいちばん共感したところを引用します。
実際、私も語学の専門家の端くれとして活動するなかでさまざまな言語の通訳、翻訳家さんと出会ってきましたが、優秀な方ほど、とにかくものすごい量を勉強なさっています。
もうすこし正確にいうと、人生の一時期において(いま思うと、よくあんなに勉強して死ななかったな……)というくらい外国語学習に没入した時期が必ずあるということ、それは多くの場合、初級から中級の時期だということです。そうやってまずは量の力で基礎体力を培ってから、自分の将来的な目的(研究、ビジネス、趣味、恋愛などなど)に応じて学習方法を厳密にカスタマイズしてゆくわけですね。
このように、まずは量をこなし、そこから次第に質を高めていく、つまり③質↓量↑ から出発して①質↑量↑ まで持っていくことが、確実とは言えずとも着実に、語学力を高めていくことができる (考えうる限り最良の?) 方法なのかもしれません。
今回、投稿を通してインスピレーションを与えてくださったお二人に感謝いたします。
もう一度リンクを載せるので、気になった方はぜひ読んでみてください。
平野暁人さん note → https://note.mu/aki0309/n/n292a033f108c
あやきさん twitter → https://twitter.com/EAyaki/status/1196297532709621761
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