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語学力をアップデートせよ

  • 2018年10月13日
  • 読了時間: 9分

こんにちは、志村です。


タイトルで感づかれた方もいらっしゃるでしょうか。

今回は、各方面で話題の落合陽一さんについてです。


最近でも、とあるニュース番組に下駄を履いて出演し、

態度が悪いだのなんの微笑ましい炎上によっても注目が高まっているようです。


なんというか、嫌いな人は嫌いなんだろうしそれはそれでいいのでしょう。

でも僕は彼の著作を数冊読んで、純粋に「すごい人だ」と思っています。

何がすごいかというと、誰よりも頭を使ってものを考えていること、

さらに、自分で使う言葉をちゃんと自分で定義できる人だということです。

詳しくは本を読んでいただきたいのですが、“デジタルネイチャー”、“詫び錆び”、“魔法” など、知っているようでイメージの定まらない言葉を組み合わせ、それをかみ砕いて定義し直し、彼独自の視点を編み出しています。

次の時代を生きる様々なヒントをくれる人物だと言えるのではないでしょうか。


そんな彼がよく使う言葉の一つに “アップデート” があります。

更新する、という意味ですが、時代の変化に合わせ、身の回りの様々なものをアップデートしていく。革命みたいに壊して作り変えるというよりは、微調整を繰り返し、その時代に合った最適な形に更新し続けていくという意味合いが込められています。

そこで、一見関係なさそうに見えるところにも「テクノロジー」を応用しアップデートの精度を高めていく、というのが彼の発想の面白いところなのですが、ここでは深入りしません。


ではここでいったい何をしたいかというと、彼のお手伝いです。

彼の本を何冊か読むといろいろと信じられない気持ちになります。一人の人間の思考がこんなに隅々まで届くものかと、彼の専門である科学やテクノロジー論はともかく、政治や教育まで、斬新かつ強固な発想が数多紹介されているのです。

いったいこの人にわからないことなんてあるのだろうかと勘繰りたくなるくらいなのですが、それでも僕が唯一ひっかかった部分があります。それが「語学力」についてです。

ひょっとしたらこれに関してだけは、彼よりも僕の方が考えているかもしれない。

だから彼が「アップデートし残している部分」について、ここでは語りたいのです。


そのために、まずは落合さんの著書のなかから関連部分を引用します。


今年1月に刊行された『日本再興戦略』という本のなかに、

「自動翻訳が劇的に普及する」と題された章があります。


〝現時点で、自動翻訳は誤訳もありますが、それは、話し手に問題があるケースが大半です。どの単語と、どの単語を組み合わせればうまく翻訳してくれるのかという、文の論理構造や主語述語の対応関係、曖昧な意味でとらえられやすい言葉を押さえていない。つまり、話し手が機械に翻訳されやすい話し方をマスターできていないのです〟(p.113)


〝よく機械翻訳をバカにする人がいますが、それは機械翻訳がバカなのではなく、話しているほうが対応できていないのです。誤訳が多いというのは誤りで、誤訳はそもそも、もとの文の構造が間違っていたり、曖昧な単語や文脈に依存する言葉を多用していたりすることが原因なのです〟(p.114)


もう一つ、『これからの世界をつくる仲間たちへ』(2016年)からも引用しましょう。


〝これからの時代、コミュニケーションで大事なのは、語学的な正しさではなく、「ロジックの正しさ」です。

 言葉は、文法が正しければ論理的になるというものではありません。実際、使っている日本語自体は間違っていないのに、ロジックがめちゃくちゃな話はいくらでもあるでしょうう。「AならばCである。BはAである。ゆえにBはCである」—という三段論法に代表されるロジックは数式のようなものですから、言語からは切り離すことができるのです。〟(p.149)

そして「コミュニケーションは『ロジック』がすべて」と題された本章は以下のように締めくくられます。


〝プログラミング言語を使うようにロジカルな文で自動翻訳を使うと、結構すんなりと訳されます。文学的な表現などの場合は話が違いますが、単に意味が伝われば十分なコミュニケーションは、明確なロジックがすべてなのです。〟(p.150)


いったん整理しましょう。


おわかりのように、「自動翻訳」がここでのキーワードです。自動翻訳技術は応用言語学などでも扱いますが、近年目覚ましい発展を遂げています。翻訳の精度は扱えるサンプル(例文や用例)が多ければ多いほど正確になっていくので、インターネット等を利用してたくさんのデータを扱えるようになったことで、Google翻訳をはじめとする自動翻訳は急成長しているのです。

いまだに「日本語⇔英語、フランス語」など性質の大きく異なる言語間では完璧とは言えませんが、おかしな訳だと笑っていられるのもいつまでか、正直なところわかりません。

そして落合さんの考えでは、現段階での翻訳技術がまだ、ニュアンスまで含めた完璧な翻訳には及ばないとしても、話し手が入力を調整し、多義的な解釈の余地が残らないように「ロジカル」な文章を作れさえすれば、完璧に近い翻訳もすでに可能ということなのです。


ここまでは僕も共感します。

「三段論法に代表されるロジックは数式のようなものですから、言語からは切り離すことができる」というのも納得です。

ただ…、「数式のようなロジック」を言語から切り離せたとして、そのロジックを同じ「言語」で表すことは可能でしょうか?

翻訳機に数式を打ち込むわけにはいきません。入力するのはあくまで言葉ですから、これは要するに「言語を数式のように使う」ということを意味するのです。


少し喩え話をしましょう。

この「言語から切り離された純粋なロジック≒数式」を仮にエスプレッソとします。そして「文化や歴史、地理的条件などによって形作られたその言語特有の性質」をミルクとします。

このとき、これを混ぜ合わせて出来たカフェラテが僕らが普通に使っている言語(=自然言語)なのです。言語を数式のように使うことは、このカフェラテからエスプレッソだけを取り出すようなものです。そんなことは可能でしょうか?


落合さんなら何と言うでしょう。「できる」と言うかもしれません。


立場があいまいになるようですが、

実を言えば僕の答えも「できる(ある程度なら)」です。

自然界にはエントロピー増大の法則があるのでカフェラテからエスプレッソを取り出すことはおそらく不可能ですが、言語は頭の中にあるので、そこからロジックを取り出すことは、きっとできなくはないのです。


ただ、ここからが問題です。


僕がひっかかったのは以下の部分、『これからの世界を~』のページを少し戻したところにある、「『語学力』にとらわれない時代がやってくる」と題された章の冒頭部です。


〝これからの時代を生きていく人たちは、物事を深く考え、それを「言語化」する能力を身に着けることが大事です。その意味では、前述のとおり「英語学習」ばかりに熱をあげるのは間違っています。

 そう言うと、「グローバルな社会では、『言語化』するのにも高い英語力が必要ではないか」と反論したくなる人もいるでしょう。

 しかし、言語化能力とは解釈力や説明能力のことであって、語学力のことではありません。どんなに英語が流暢でも、解釈が低レベルで説明が下手なのでは、話を聞いてもらえない。重要なのは語学力ではなく、相手が「こいつの話は聞く価値がある」と思えるだけの知性です〟(p.144)


新しいキーワードが出てきました。「言語化」です。

落合さんは「言語化能力とは解釈力や説明能力のこと」であるとし、これを重要視しています。さっきの喩えでいえばロジックを汲む力、エスプレッソを見極める力のことです。

この点については僕もまったく同感です。言語化能力こそ、これからの時代に必要な力と言えるでしょう。そしてこれを育むためにロジカルな考え方(論理的思考)が大事で、さらにそれを身につけるために数学の理解が大切であることも芋づる式に理解できるでしょう。


ただ彼が言うには、言語化能力とは「語学力のことではありません」。

この部分こそが、僕が違和感を抱き、アップデートしたいところです。

なぜなら僕にとって「語学力」とは言語化能力のことでもあるからです。


言葉のやっかいなところが出てきました。

「~である」、「~でない」というのも実はなかなかに曖昧なのです。

落合さんのご意見を数式に訳すと、「言語化能力 ≠ 語学力」になるかと思います。対する僕の考えですが、決して「語学力=言語化能力」と言いたいわけではなく、あくまで「語学力 ⊃ 言語化能力」、つまり「語学力には言語化能力が含まれる」と言いたいのです。ただ、同時に「語学力 ⊂ 言語化能力」つまり「語学力は言語化能力に含まれる」とも言いたい。しかしこうなると、数学の包含関係のお約束では「語学力=言語化能力」となってしまいますが、いや、これはやっぱり違います。

生きた言葉を数式に落とし込む難しさがわかっていただけたでしょうか。

言葉は確かに、その気になれば数学に限りなく近づくので「言葉 ≒ 数学」です。

しかし、「言葉=数学」になることはやはり決してありえないのです。


少し話が逸れましたが、何はともあれ「語学力」です。

「『英語学習』ばかりに熱をあげるのは間違って」いるというのは、確かにやり方次第ではその通りなのですが、「英語学習」と「『言語化』する能力を身に着ける」ことが無関係だとは僕は思いません。

ここで話を英語に限定する必要はないので、広く「外国語学習」としましょう。「外国語学習」を熱心に行った結果伸びるのは「語学力」だけでしょうか?「語学力」が伸びるにつれて「解釈力や説明能力」という意味での「言語化能力」も伸びると言えないでしょうか?


たとえばフランス語では、「新しい」という意味の形容詞に « nouveau » と « neuf » の二つがあります。前者は「前に比べて真新しい、次の」という意味で、後者は「状態が新しい、新品の」という意味です。「新しいiPhone」と言うとき、新モデルという意味で使うのか単に新品という意味で使うのかで、使う形容詞が異なるのです。

さて、この二つの形容詞を使いこなせるようになることは何を意味するでしょうか?

確かにフランス語の語彙を使えるようになったという意味では「語学力」の向上ですが、新しい概念を明確に区別できるようになった、世界の認識を細分化できるようになったという意味ではむしろ「言語化能力」の向上です。


このように、本気で「語学力」を身につけようと思ったら、自分の言語には存在しない概念に向きあい、理解し、説明できるようにならなければなりません。

だから「言語化能力」の向上なしに「語学力」は伸びないし、裏を返せば、「語学力」を伸ばそうと奮闘すれば自ずと「言語化能力」も向上するのです。


長くなりました。

最後に「語学力をアップデート」して、筆を置きたいと思います。


「言語化能力とは解釈力や説明能力のことであって、語学力とも強い結びつきがあります。

どんなに英語が流暢でも、解釈が低レベルで説明が下手なのでは、話を聞いてもらえない。重要なのは相手が『こいつの話は聞く価値がある』と思えるだけの知性であり、それを獲得するためには『語学力』を向上させるという手段も考えられます」 

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